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泣いた

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昨日今日は、先日このブログで書いた
 
『秋山眞さん』
 
のお通夜と告別式があった。
 
昨日のお通夜は、はぎうだ光一衆議院議員の弔辞に思わず涙がこぼれた。
 
秋山先生のお人柄を上手に表現した素晴らしい弔辞だった。
 
はぎうだ光一衆議院議員も涙で詰まった場面も何度もあった。
 
後で、はぎうだ光一衆議院議員が言っていたが、
 
『弔辞をゆっくり読むと涙が溢れ出て読めなくなりそうだったから、早口で読んだんだ。』
 
お通夜の後、心ある仲間たちと秋山先生の生前のお話をする為にお酒を飲みに行ったのだ。
 
久しぶりに飲んでしまった。
 
 
 
今日は、最後のお別れだった。
 
告別式が終わり、本当の最後の別れで秋山先生の棺にお花を添えた。
 
100人近い人が残っての最後のお別れは、涙を流す声が至るところで聞こえた。
 
私も涙が出て止まらなかった。
 
秋山先生の奥様の純子さんが最後のお別れをしているのを見ていたがいつのまにか私は嗚咽えと変わっていた。
 
式場のとなりにある火葬場の御釜に移動した。
 
火葬の為に御釜に入る秋山先生に思わず大きな声をかけていた。
 
『先生またね!』
 
本当に最後の別れだ。
 
その後、火葬された秋山先生の骨を拾わせていただいた。
 
まさか秋山先生の骨を拾うことになるとは・・・・。
 
段払い(精進落し)が『なか安』で行われたので最後まで参加をさせていただいた。
 
葬儀告別式が無事に終わり、今家に帰ってきたが本当につらい悲しい別れだった。
 
遺影で使われた写真をご紹介致します。

 
イメージ 1

 
生前のもっとも秋山先生らしい写真です。
 
ご家族もそう思われて、この写真にしたそうです。
 
 
 
もう一枚、ご自宅に帰られた後に枕もとに飾ってあった写真のボードをご紹介致します。葬儀の会場にも飾っていました。

 
イメージ 2
 
 
最後に、昨日のはぎうだ光一衆議院議員の弔辞を本人の了解を得たので原稿の写しをご紹介致します。
 
昨日は、外にまで参列者が並んで会場の外には音声が流れていなかったので是非目を通してください。
 
お別れの言葉

㈱アクトワン代表取締役社長 秋山 眞 様の御霊に謹んで お別れの言葉を申し上げます。

 
秋山先生 一年前につきっきりで選挙を共に戦い 国政に再起を果たしたばかりのこれからという時に こうして貴方の通夜の席で私が弔辞を読もうとは考えてもみない事でした。

昨年十一月三十日 前日の後援会映画会が盛会に終了し  打ち上げの席で「暫く顔を見ない秋山さんが心配だ」との皆さんの声を受け 私が連絡を取りお会いする事になりました。
 
私 自身は夏以降も仕事の相談事もあり 重々お会いをしておりましたので うすうす体調がすぐれない旨は承知をしておりましたが 回りに心配させない秋山さんの性格は「ダイエットが上手くいった」と笑って話されてました。
 
 
開口一番 「西川先生に続いちゃってごめんね」と言われ 私は耳を疑いました。
 
西川先生とは私達共通の友人であり そのつい 数日前に六十九才で他界され...た西川弁護士の事で 「六十九才は若すぎると思ったけど 僕もあと十年でいいから生きたかったよ 代議士」と言われ言葉が出ませんでした。
 
 春先から異変に気づき膵臓がんが発見された事  六月に築地のがん研でオペをしたが 切除が難しく転移も見られ中止をした事 抗がん剤治療を始めたが効果があらわれずここで薬を変える事 一年後の生存確率はゼロに近く 余命三ヶ月を宣告された事を淡々と説明をされました私は震える手を押さえ 平静を装って「秋山先生 水臭いな 何でもっと早く言わないんだよ 担当医誰? 重粒子線治療の 提案あった?あそこは厚労省の縄張りで新しい事やりたがらないんだよ 文科省で引き受けるから向こうがヘソ曲げない程度に色々な治療やってみようよ」と精一杯の笑顔と知識の限りを尽くして日本の医療技術がどんどん進化している事をひたすら雄弁に訴え続けました。
 
今から思えば会話が途切れるのが怖かったのかも知れません 秋山さんもだんだん明るい表情になり 「そうだね、もし二~三年もてばその内に山中教授のIPS細胞が 実用化するかも知れないね」と前向きに答えてくれ 私も「そうだよ…」と安堵しました。 

一方で冷静に会社のこれからの事 後援会や明大会 自身が所属する様々な団体や関わりのある事 幸い仕事が順調で今のお客様に心配をかけたくないので病気の事は黙っていて欲しい事をお願いをされました。
 
 途中からは奥様  純子さんを呼んで
「代議士が色々アドバイスしてくれたのでやれるだけやってみる」と話し「絶対に負けない 諦めない」事を三人で誓って別れました。 

秋山眞さんは昭和二十九年八王子市台町に秋山つねじさん清子さんの長男として誕生され 地元の七小・七中を卒業後  都立南多摩高校へ進学  幼少の頃から文武両道で中学では 剣道部 高校ではサッカー部で汗を流す一方 絵画や幾何学にも興味を持ち その頃から設計の仕事を志していた様です。
 
卒業後は明治大学理工学部建築学科に進み本格的な建築の 勉強を積み地元の鈴木吉三設計事務所に入社しました。
 
時は 高度成長期で大手設計事務所やゼネコンの設計部への就職口もあったのですが大きな図面の一部分を引いたり計算したりするより顔が見える施主の要望に応え 完成の時の喜びを共有したいという思いと 一日も早く八王子で自分の事務所を開きたいとの思いから鈴木先生の所にお世話になったとの事です。 
 
その頃からの思いを貫いて どんなに回り道をしても自分も 施主も納得できるまで努力して 図面におこす秋山先生の仕事ぶりは少年時代の志そのものだったと敬意を表します。
 
奥様との晩酌の時には時折 「自分は設計の仕事が好きなんだ 苦労してまず図面をおこした時の達成感はたまらないんだよ」と話されていたとの事です。
 
一番の理解者である純子さんに常にこの仕事に入った原点を話す事で初心を大切にしていた秋山さんの人柄が偲ばれます。 

その後 昭和六十二年に念願の自らの設計事務所㈱アクトワンを設立し子育てに忙しい純子さんと二人三脚で苦労をしながらもその卓越したセンスと 誠意ある仕事ぶりが評判となり 順調に仕事量も増え今日では市内の関係者では知らない人はいない事務所に成長させました。
 
 
勉強熱心な方で医療や福祉 耐震の制度変更や国や都の支援策等 資料を頼まれる事も重々ありその知識を施主の負担軽減や建物の安全性向上やグレードアップに使える様 常に相手の立場に立って仕事をされている事が多くのお客様の信頼にも繋がったのだと思います。
 
 
ちょうど一緒に相談していた保育園の仮設園舎の設計では建物本体より「お母さんの送迎時の車の停め場所やチャイルドシート から子供を降ろすスペースを考えないと」と丁寧にメジャーを当てていましたし 「お爺ちゃんが自転車で来る場合もあるよね」と 自転車置き場の図面を引いていましたが きっと昨年真未さんのところに生まれた孫の「伊久磨」君や圭君のところの「朔太郎」君を自転車で送迎する自分を夢見ていたのかも知れません。
 
 
どこまでも現場感覚を大切にされた秋山先生の心遣いはアクトワンの若い皆さんに必ずや引き継いで頂けると信じております。 

私との出合いはいつ頃からだったでしょうか?
 
青年会議所の先輩方にまざって宴席等でご一緒する事はずっと以前からあったのですが何かの機会に同じ明治の同窓だという話しになりそれ以来親しくご指導をいただいてきました。
 
もっとも市議会の頃はその 青年会議所仲間の高木さんの手伝いをしておりましたので 「萩生田君が違うステージに行く時には必ず協力するから」と常々口にされ その約束通り都議選挑戦の時には選対の中枢で朝から晩までご心配をいただきました。
 
中でもチラシの作成や 法定 ハガキの準備 電話選対へ送る名簿の整理等地味で誰かがやらなくてはならない緻密な仕事を実に確実に先回りして対応していただく秋山さんは私の当選になくてはならない人 かけがえのない同志でした。
 
選挙戦では熱くなって皆が言い合う場面も珍しくありませんが 常に温かで冷静に事にあたり 秋山さんが声を荒らげたり人の誹謗中傷をする事を一度も見た事がありません。
 
 私などは秋山さんから「僕がちゃんとやっとくからそんなにカッカしない」と諭される事度々でした。 

落選中は事の他心配をされ自ら何かの役を受けたがらない 秋山さんが率先して後援会の部会長を引き受けて下さり市内の支援組織の見直しを手掛けて下さいました。
 
事務所が近い事もあって私がいてもいなくても立ち寄り 家内や事務所のスタッフを激励し続けていただき 家内とはお互いの子供達の成長と お二人のお孫さんの話しを目を細めて嬉しそうに語られていたそうです。
 
旅行にも行けない浪人中を心配してご自身の会員制ホテルの温泉を予約してくれた事もありました。
 
「仕事で行けなくなったので代わりに使って」とおっしゃいましたが 後にちゃんと事務所で私の行ける日程を確認していたと知りました。
 
どこまでも気遣いをされる優しい先輩でもありました。 

三年四ヶ月の雌伏の時を共にご苦労いただき再起を果たした時には心から喜んでいただきました。
 
いつもは「忙しいだろう  疲れているんだろう 」と会合後に誘う事は滅多になかったのですが予算委員会の質疑の直後には珍しく「良かった かっこ良かった」と興奮気味に話され 「一軒だけ付き合ってよ」と二人きりで 夜遅くまで飲み交わしこれからの夢を語り合いました。
 
奥様にも「これからの彼の活躍がわくわくする」と話されていたそうです。 

お会いをした数日後には元気にお電話をいただきました。
 
主治医の先生から私からの連絡が入った事 重粒子を検討する事になった明るい声でした。
 
一方で新聞記事のコピーをお持ちになり 「東大医科学研究所が抗がん剤の効かなくなった膵臓がん患者でペプチドワクチンの治験募集があったので応募したい」とも言ってきました。
 
早速東大に問い合わせ紹介をしたのですが その時には数値が悪く治験に耐えられないという結果でした 「もしだめでも少しは社会の為になりたかったんだけど残念です」と落胆していましたが 病魔と闘う気持ちとあきらめの気持ちが交差する秋山さんとのやりとりに「がんばって」しか言えない無力さに胸がはち切れそうでした。 

入院中も病室へパソコンを持ち込み最後まで仕事を続け外出 許可をとっては少しブカブカになってしまった背広を気にしながらもお客様には笑顔で接し続けましたが体調はすぐれず最後は 抗がん剤治療を止めて地元の右田さんに入院する事を決めたそうです。
 
自分に残された時間が少ない事はわかっていて都心の 病院で家族に負担をかけたくないという秋山さんのやさしさからでした。
 
同じ頃 盟友の松村さんのところへ奥様を同行させ葬儀の事 その後の事を詳細に打ち合わせされたそうです。
 
松村さんもかける言葉がなく 「心配しないで治療に専念しろ」と言うのがやっとだったとの事でした。
 
入院の前日には自分が帰ってくる部屋のしつらえを純子さんに命じ「少し早かったけど覚悟しなさい。
 
自分の体の事は自分で良くわかる 死が目の前に迫っている」事を静かに話されたそうです。 

以来ご家族はお父さんの言付けは忠実に守りながらも奇跡を信じて献身的な看護を続けてらっしゃいました。
 
 秋山さんも  子供の頃からの CAの夢が叶った真未ちゃんの事  産休明けには職場に戻るのでもう 一度飛行機に乗りたいのでせめてそれまではとか……二〇二〇年のオリンピックが決まり国立スポーツ 科学センターに働く圭君に 代議士と六年間仕事ができるので オリンピックまでは無理かな?と思いをめぐらせ頑張っていましたが 最後はこの四月に家族全員で還暦の祝いをする それまではと心に決めていたようです。
 
残念ながらその約束も果たせないあまりに早いお別れでした。
 

入院の朝 私に抗がん剤も免疫治療も止める事にしたと まるでお別れのようなメールを送ってきました。
 
直ぐに電話をかけ 「何言ってるんだよ 忘年会には外出許可もらってよ 見舞いになんか行かないよ 退院して又会うから」と声をかけましたが「テレビで毎日会ってるから見舞いはいらないよ」と笑い 静かに「ありがとう」と繰り返すだけでした。
 
 
亡くなるその日には純子さんと二人きりになった時 両手を大きく広げ奥様を力強く抱きしめたそうです。
 
言葉を発する事はできませんでしたが奥様は「これが主人からの最後のお別れなんだ」と覚悟をしたそうです。 

あまりにも早いお別れにさぞ悔しかっただろうとご自宅に戻った秋山さんの枕元で言葉をかけましたが 純子さんは 「主人は 今まで周囲の人に支えられここまで来る事が出来た喜びと幸運を感謝していました」というお言葉を聞いて少しホッとしました。
 
そして「萩生田さんのこれからや八王子が楽しみだ」とも言っていただいたそうです。 

秋山さん 貴方のような先輩にお会いできて私も本当に幸せでした。
 

旅行も麻雀もワールドカップの観戦も叶わぬ約束になってしまいましたがいつの日か天国でお会いした時に「期待通りだったよ」と声をかけてもらえるよう秋山さんの分までこれからも頑張っていく所存です。 

今日の通夜 松村さんを先頭に素晴らしい仲間の皆さんが 貴方の設計の通り運営をしてくれています。
 

 
もう何も心配する事はありません。
 
天の一角から最愛の奥様 純子さん 真未さん 圭君 そしてお孫さん達の成長とこれからを見守って下さい。
 
秋山家の繁栄と大好きな八王子の発展を 見守って下さい。 
 
貴方に支えていただいたご縁を誇りに私も更に努力をする事をお誓いし名残りは尽きませんがお別れの言葉といたします。

秋山眞さん 安らかにお眠り下さい。
 
本当にありがとうございました。
 
そしてさようなら
 
平成26年1月16日
衆議院議員 萩生田光一
 
 
 
以上が、萩生田光一衆議院議員の弔辞の原稿でした。
 
今日の段払いの最後に、秋山先生の弟さんが親族を代表されてお話をされました。
 
『母にも、私にも最後まで病気の事を話さなかった。私達も知らなかった。』
 
 
仲間内でも『何で言ってくれなかったんだ』とのお声も聞きましたが、是非秋山先生の思いを知り、黙って天国への旅立をお見送り致しましょう。
 
秋山先生  さようなら!
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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